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活動報告一覧

徳川斉昭

寛政12年(1800)一万延元年(1860)。水戸藩第9代藩主。水戸藩第7代藩主治紀の三男として江戸藩邸に生まれる。兄が死去したのち、文政12年(1829)に藩主となる。藤田東湖や会沢正志斉らの改革派の支持を背景に強力に質素倹約・社寺改革・財政再建などの藩政改革を断行。しかし、藩内に改革派と門閥派の対立が表面化し、弘化元年(1844)幕命により藩主を辞任、謹慎を命じられる。その後、土民の雪免運動により謹慎を解かれる。

嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府の海防参与に就任。のちに日米修好通商条約調印を巡り、大老井伊直弼と対立し水戸に永久蟄居を命ぜられたまま没する。烈公。

水戸藩の第9代藩主を務めた徳川斉昭は、12年(1800)に生まれた。そのころから。日本の近くの海にはロシア・イギリスなどの外国船が接してきたり、多くの藩で財政がとても厳しい状況にあるなど、様々な問題が表れてきた。その中で斉昭は、水戸藩内はもちろん、日本中から注目される存在となっていく。

文政12年(1829)に藩主となった斉昭が直面した問題は天保の飢饉(1833~1836)。その時、斉昭は貯蔵しておいた穀物を有効に活用するなど様々な救済策を打ち出すとともに、自ら倹約<むだ使いしないこと>を率先して行った。藩主自ら飢饉の被害を少しでも少なくしようと努力する姿は、多くの人々の共感を呼び、水戸藩の飢饉対策は全国的にも知られるようになった。

「領民の生活をしっかりと見ておかなくては改革を進めていくことはできない。」斉昭は藩主であった14年間のうち、合計5年2か月も藩内に留まり、人々の生活を見てまわり、藩の政治に役立てた。江戸に住むことが多かった水戸藩主としては、たいへん診しいことだった。

斉昭は藩政改革の一環として、藩の学校を水戸城内の三の丸に建てた。その名を弘道館といい、今の総合大学のような施設で、藩士の子弟が文学・地理・数学・兵学などの学間や、剣術・槍術・水泳などの武芸を習得する場として開設され、多くの優秀な人材を世に送り出した。その構内には医学館も設け、医者の研修の場とした。

また、弘道館で学ぶ藩士の休息の場として借楽園が造られた。偕楽とは「民と偕に楽しむ<身分にとらわれず、一緒に楽しむ>」という意味で、藩士ばかりでなく、一般庶民も毎月の定られた日には入園を許された。また、藩内の各郡には郷校を作り、庶民のための教育にも力を注いだ。

海岸沿いの守りを固めておかないと、強い軍事力をもつ西洋の国々に攻められてしまうと考えた斉昭は、追鳥狩と呼んだ軍事訓練や、大砲の鋳造を行うために反射炉の建設にも取り組んた。嘉永6年(1853)のペリー来航後は幕府の海防参与という役職に就任し、日本が外国に攻められないようにするためにはどのようにすればよいか、いろいろと対策を考え幕府にその実行を迫った。

しかし斉昭は、彦根藩[滋賀県]の藩主で幕府の大老井伊直弼と対立することになる。直弼は、アメリカとの貿易を認める日米修好通商条約を早く結ぶべきという考えであり、将軍の跡継ぎを誰にするのか、についても斉昭とは異なる意見だった。

幕府の大老である直弼との対立の結果、斉昭は、水戸城内で謹慎<自由な外出を制限されてしまうこと>することを言い渡されてしまう。しかしその後も、斉昭の考えに共感する人々からは「日本を外国から守るためには斉昭の力が必要だ。」と、大いに期待されていた。

このように、斉昭は天保から幕末へと向かう内外ともにたいへん難しい時代に,強烈な個性をもって積極的に改革を推し進めた藩主だった。

水戸市教育委員会より
サボテンの花

コウモリなどの夜行性の動物が受粉を手伝ってくれるので、サボテンの花は夜に咲くものが多いのが特徴だそうだ。

もしかして、月下美人のように一夜だけしか咲かなかったらどうしよう。

それにしても、大輪で美しい。

明日の一般質問
今朝の農業新聞に載っていた「黒潮町の津波避難タワーと防災対策」

明日の一般質問では、

1、旭の防災・災害対応について

2、旭の観光振興について

この2件について質問します。

奇しくも今朝の農業新聞には、7月9日、10日と視察した黒潮町の防災対策が記事になっていました。

観光客に安心してきてもらうために、観光振興と「防災・災害対応」とは、切っても切れない関係にあります。

黒潮町で学んできたことを、施策に反映するための提言をしたいと思います。

米不足の深層 水田は安全保障の要
旭ではほとんど刈り終わったようだ。暑い中、大変お疲れ様でした。

東京大学大学院特任教授 鈴木宣弘

過剰だ過剰だと言われ続けてきた米が、突如不足に陥っている。昨年の猛暑やインバウンド(訪日外国人)需要などの要因が指摘されているが、少しの需給変動で不足が顕在化してしまう根本原因は別にある。
 過剰を理由に
①生産者には生産調整強化を要請し
②水田を畑にしたら一回限りの「手切れ金」を支給するとして田んぼつぶしを始め
③コスト高でも小売・流通業界は安値でしか買わず
④政府は農家の赤字補填はせず、稲作農家の平均所得が1万円に落ち込むほどに農家が苦しみ、米生産が減ってきている               ことが根底にある。
 さらに                               ⑤米の政府備蓄を増やすことをしなかった。しかも、100万トン程度の政府備蓄はあるが、その放出を否定している。需給調整は市場に委ねるべきもので、よほどの事態でないと放出は行わない方針なので、「この程度」ではできないと言う。
 確かに、場当たり的な放出は市場を混乱させる。在庫がこの水準を下回ったら放出すると言うのを明確な数値で制度化しておけば、みな、それを織り込んで計画的に行動できる。政策が動くのを予見できるようなシステマチックな仕組みが必要だ。
 中国は14億人が1年半食べられるだけの穀物備蓄を進めている。一方、日本の備蓄は、⒈5カ月分程度だ。これで不測の事態に国民の命を守れるか。米は700万トンくらいの生産規模まで減反しているが、日本の水田をフル活用すれば1300万トンできる。
 倉庫で備蓄するだけでなく、高騰した海外産飼料に代わる飼料米、小麦の代替の米粉パンなど、子ども食堂やフードバンクを通じた国内援助米、海外への援助米などで米の需要、出口は拡充できる。
とにかく、供給サイドで調整しようと農家を振り回して疲弊させるのをやめ、出口・需要を創るために財政出動する、つまり、生産調整から販売調整に切り替える必要がある。それによって、水田を水田としてフル活用しておけば、不測の事態の安全保障になる。
 そんな金がどこにあると財政当局は一蹴するだろうが、まず命を守る食糧をしっかりと国内で確保するために、仮に1兆円かかっても、それこそが「国防」ではないか。備蓄費用は安全保障のコストだと認識すべきだ。

日本農業新聞 今よみ:2024.9.10

忍者カマキリ

猛暑が続くからか、まだカマキリがいる。

しかも、忍者の様にさりげなくそこにいた。

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