ヤギは紙食?孤食?
今日も春を思わせるぽかぽか天気でしたね。
先週と同じく、子ヤギの子守をしながら読書を決め込みました。
「ヤギのゆうびんやさん」は、お手紙を食べてしまいますが、こちら早速かじられました。
しろヤギさんから おてがみついた
くろヤギさんたら よまずにたべた
しーかたがないので おてがみかーいた
さっきのてがみの ごようじなあに
なんとも長閑な、私の旭生活にぴったりの童謡です。
かつての浦安の保育園時代を懐かしみながら、これからの子ども達が
情緒あふれる人になってほしいなぁと心から思ったのでした。
ヨウ素
この記事の理解に苦しんでいます。
今まで、千葉県がヨウ素の生産量世界2位ということも知りませんでした。
・同じ島国なのに、マダガスカルの人がなぜヨウ素欠乏症に苦しむのか。
・なぜ輸出ではなく、無償提供なのか。
・地球上で、マダガスカル人だけがヨウ素欠乏症なのか。
こんな疑問が沸々とわいてきて、誰に訊いたらいいのかもわかりません。
もしかして学校で習ってきたのかもしれませんが、もう一度教えてほしいです。
明治記念館
明治憲法草案審議の御前会議が開かれた場所は、「金鶏」という名の会場として、明治記念館本館内に今もなおその姿を残しています。
明治記念館HPより
明治記念館で集まりがあり、久しぶりに日本の中枢辺りに行ってきました。
お日柄が良かったのでしょうか、中庭の芝生では、何組ものカップルが記念撮影をしていましたし、披露宴会場のロビーでは、お祝いに駆け付けた人たちと談笑する新郎新婦の笑顔がありました。
明治記念館。日本の歴史を見てきた館。
「人を信じなさい。そして、その100倍も自分自身を信じなさい」手塚治虫
『手塚治虫忌』 今日、2月9日は、漫画の神様と呼ばれた「手塚治虫」の命日です。60年の生涯に、およそ15万枚の漫画と60本のアニメを描いた天才は、1988年(昭和63年)の3月に、胃の手術を受けます。胃潰瘍と告げられていましたが、実は、がんでした。手術後に一度、退院はするものの、同じ年の11月にふたたび入院。病床にありながら仕事を続けますが、翌年の1月15日に病状が悪化。意識を取り戻すたびに、言い続けたのは、こんな言葉でした。 「えんぴつをくれ・・・」 そしてついに、1989年2月9日、帰らぬ人となりました。今日は、その命日にちなんで「手塚治虫」が「漫画の神様」と呼ばれるわけを、たどってまいりましょう。 手塚治虫は、1928年(昭和3年)の11月3日、 大阪府豊中市に生まれます。3人兄妹の長男。 父親の粲(ゆたか)は、住友金属に務める会社員で、カメラが趣味。母親の文子(ふみこ)は陸軍中将の家に育ち、ピアノが上手な才媛でした。おじいさんは裁判官で、孫の治虫によく言い聞かせていました。 「人間はな、みんな自由で平等でなくてはいけないんだよ」 治虫少年は、とにかく物語を作るのが得意で、作文はいつも大作。「東京まで旅行したこと」という題で、大阪から東京までの一駅ごとにすべての物語を書き上げて、先生を驚かせたこともあります。作文以上にうまかったのが漫画です。しかし、体が小さく体育は苦手。いじめっ子たちの標的にされていた治虫少年に、母親は聞きました。 「今日は、何回泣かされたの?」「7回」 答える息子の頭を撫でながら、母は、いつも言いました。「がまんするのよ、許してあげなさいね」 1941年(昭和16年)、治虫少年が大阪府立北野中学に進んだとき、太平洋戦争が始まりました。漫画本が消え、絵を描くことが「遊びだ」と叱られるようなこの時代を、治虫少年は憎みました。大阪大学付属医学専門部に入学した年に終戦。 「大阪の町に灯りが点いている。戦争が終わったんだ。 ボクは生き残れたんだ。漫画家になれるかも知れない」 医学生・手塚治虫は子供向け毎日新聞連載の「マァチャンの日記帳」という作品で、デビューしてしまいます。 その後、「新宝島」「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」などの新作を発表。人物の顔や一場面を大きく描く「クローズアップ」一つの動作をこまかく分けて描く「コマ割り」といった新しい手法で手塚人気は一気に高まっていきます。当然、医学の勉強はお留守です。東京へ出て本格的な漫画の勉強をという誘いを受けたとき、その迷いを吹っ切ってくれたのは、お母さんの言葉でした。 「医者でも漫画家でも、あなたの好きな道を行きなさい」 こうして東京へ出て最初に発表したのが「ジャングル大帝」でした。そしてあの「鉄腕アトム」の誕生を迎えます。 ①どんな計算でも1秒でできる ② 目がサーチライトになる ③話せる言葉は60ヶ国語 ④力は10万馬力 ⑤聴力は1000倍 ⑥ ジェット噴射で飛べる ⑦ 相手がいい人か悪い人か、すぐ分かる。アトムは子どもたちの夢そのものでした。 その一方で、医師の国家試験に合格し、医学博士の学位まで取ってしまうのですから、手塚治虫は並みの天才ではありません。 1963年(昭和38年)元旦、アトムは日本初の長編アニメになって、お茶の間に飛んできます。最高視聴率は何と、40・7%!ディズニーの「バンビ」を、映画館に通って80回も観たという手塚ににとって、それは一つの夢の開花だったことでしょう。後にスタッフが五百人近くにふくれ上がり、アニメのプロダクションは倒産。けれども、手塚治虫の筆は衰えず「ブッダ」「ブラックジャック」「三つ目が通る」などの名作を、次々に生み出しました。ガリガリ、シャーッと、紙の上を踊るように動くペンの音とともに、手塚治虫は、こんな言葉を残しています。 「人を信じなさい。そして、その100倍も自分自身を信じなさい」 |
今年はみんなやっぱり「龍」。
辰年はやっぱりみんな「龍」商戦で決めますね。