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活動報告一覧

「枠」
まつざわコーヒーに飾ってある広重の版画

「富士山が枠からはみ出しているでしょう。」と、松沢さん。「東海道五十三次」の中でも珍しい「枠からはみ出した」構図のようです。

安藤広重(今は、歌川広重と教科書に載っているそうです)は、枠を気にしない人だったんですね。

葛飾北斎の「富嶽三十六景」の大胆さ、力強さは言うまでもないことですが。

恰もそこに枠などなかったかのようにそびえ出た頂に、広重の度量の大きさが表れています。

とかく「枠」を作ってしまいがちですが、「枠」を取り払うこと、「枠」からはみ出すことで生まれるものには、無限の可能性があることが示されている気がします。

黎明
  1.  夜明け。明け方。
  2.  新しい事柄が始まろうとすること。また、その時。
旭中央病院の「黎明」:椎名保画伯

「黎明」を使える人は選ばれた人。

「黎明」に並々ならぬ憧憬の気持ちを持つ人。

「黎明」を信じる人。

必要は発明の神様
畳の縁布で作ったペットボトル入れ

海っぺりに住んでいると、どうも海の生き物に反応してしまう。

  • 分類:ジーンベイザメ目 タタミベリ科
  • 学名:TATAMI-BERI SHARK PLUS
  • 和名:畳縁鮫PLUS
  • 生息域:倉敷市児島に生息し日本国内及び世界各国を回遊する。
  • 生態:スマートフォンや携帯電話など口内に納まる物であれば何でも摂食する。
  • 飼育:どのような気温・気候でも可能であるが、腹がデニムであるがゆえに白物との相性には気をつける事。

こんなに面白いことを発明する人がいる。イグサのまち倉敷で。畳需要が減っていく中で、何とかしなきゃと思ったんでしょうね。畳べりを縫い合わせた鮫の出来上がり。必要は発明の神様!なり。

ここ旭にも、神様はたくさんいらっしゃる。

SDGs
風船でできた「地球」を必死で支える裏方のお父さん<お遊戯会の舞台袖から撮影>

SDGs:Sustainable Development Goals

 ”持続可能な世界を実現するための17のゴール”

最近、世界中で声高に唱えられている言葉ですが、解り辛いのが難点。今までも、色んな横文字の言葉が世に出ては消え、そしてまた出ては消えを繰り返してきました。とてもいいことを言っていて、聞いたときは「なるほど」と納得するのですが、覚えていられない。

「SDGs」もすでに、「なんだったっけ?」になりつつあることを危惧しています。しかも17なんて数字を聞いた瞬間、「無理、覚えられない」と思ってしまうのは私だけでしょうか。広く、みんなに知ってもらおうと思ったら、解りやすさが一番だと思うのですが。

ということで、私なりの解釈。

つまり、「健全な地球社会を子どもたちに残そう!」ってことじゃないですか。

子どもたちのために、裏方で必死に「地球」を支えているお父さんのように、みんなで必死に頑張って。

政治信念
子どもたちの衣装チェックは念入りに<お遊戯会演目:大きな古時計>

私は、浦安での40年間、子どもたちを育てる仕事をしてきました。保育園経営をはじめて20年余り経ったころから、子どもの育ち方が段々変わってきているように感じ始めました。子どもが育つ場、つまり社会の変わり様は顕著に子どもたちに現れるのです。

私が見て来た社会の変わり様とは、団塊世代がこの国の主力を担うようになってから、大量消費・大量廃棄や、拝金主義、隣の芝生が青いと踏み躙るような利己主義が、世相として蔓延してきたことです。たしかに日本経済は高度成長したかも知れません。しかし、その代わりに、昔から日本人が大切にして来たことは、忘れ去られていきました。

質素倹約、質実剛健、千里の道も一歩から、石の上にも三年、情けは人のためならず、天に唾を吐く、人の振り見て我が振り直せ、因果応報、お天道様が見ている、等々。今では滅多に聞くことがなくなったこれらの格言を実践していた、かつての日本人。
この日本人の美徳、価値観を、いつのころからか子どもたちに伝えることをしなくなってしまったのです。

そんな子どもたちの変化に対して何かをしなくてはと思い、18年前政治の世界に飛び込みました。そして、浦安市議会議員になってすぐに、市長の汚職事件が発覚。それからの4期14年の私の議員生活は、「義を見てせざるは勇無きなり」を貫くためのものでした。

私は、正義がまかり通る社会に生きたいのです。道理が通る正しい社会を子どもたちに生きてほしいのです。次代を担う子どもたちに、人として正しく生きることを教えたい。ずるをした者が得をする、まじめな者は馬鹿を見る、それが世の中だと教えたくないのです。

政治の役割は、子どもたちに、公平公正な社会、そして明るい未来を約束することだと私は考えます。しかし、今、政治はその役割を果たしていると言えるでしょうか。だから、「誰がやっても同じ」と、政治をあきらめている世相が低投票率に出るのです。こんなあきらめの社会で健全な人格の次世代が育つとは、私には到底思えません。

私は、「次世代に責任を持つ政治」をあきらめない。あきらめるわけにはいかないのです。なぜなら、「次世代を育てる事」、それが私たち世代の責任だからです。