夕方から風が出てきて、波が荒くなった。
テラスにいたら、「ピーッ!」とホイッスルの音。
ライフセーバーさん達の訓練が始まったのだ。
早朝の訓練もして、荒波になったのを見計らって夕刻訓練する。
本当に、「身体を張って国民を守っている」若者たち。
自民党の総裁選に出馬表明をする政治家たちに、心から怒りをぶつけたい。
「身体を張って国民を守ろうという気概がありますか。」
この若者たちの爪の垢でも煎じて飲んでほしい。
自民党の小林鷹之前経済安全保障相(49)=二階派=は19日、国会内で記者会見を開き、9月の党総裁選に立候補する意向を正式に表明した。派閥の裏金事件による党勢低迷を踏まえ、「自民党は生まれ変わる。私たちの姿を党員、国民に見ていただきたい」と語った。
小林氏は会見で裏金事件について「多くの国民の信頼を失った。おわびの言葉も見つからない」と謝罪。事件に至った理由について「国民の当たり前の感覚との乖離(かいり)、順法精神の欠如、そして党のガバナンスの機能不全」を列挙し、政策活動費の透明化などを含めた政治改革を進める方針を掲げた。総裁選では「派閥に対する支援は一切求めない」とも公言した。
朝日新聞デジタル
自民党が自党の総裁選挙の日程の調整をしているという記事。
自民党の総裁が総理大臣になるのだから、その時点で「国民の当たり前の感覚との乖離(かいり)」がおきている。自民党の人たちが選ぶ総理大臣は、国民の方を向いてはいない。自民党が大事にきまっている。自民党の重鎮にどのように取り入るかが最重要だと思われる。
「自民党は生まれ変わる」とおっしゃる。
かつて、「自民党をぶっ潰す」と言って劇場型選挙をやった総理大臣がいた。
自民党は「ガバナンスの機能不全」になっても潰れやしない。国民の政治への信頼を失い続けている。
「派閥に対する支援は一切求めない」というのなら、派閥に属さなければいいんじゃないのかな。政治評論家が、「きっと派閥の長老の傀儡政治になると国民は危惧するのでは」とコメントしていた。全くもって同感。
8月18日お米の日。
台風で、稲が倒れたり、田んぼが水浸しになったり、農家さんにとって稲刈りが大変な作業になっている。
一日に何回も作業着を着替えるほどの重労働だ。
毎日美味しいご飯が食べられるのも、こうした農家さんの労苦があればこそ。
8月18日お米の日は、農家さんに感謝の日。
台風が気になっていつもより早く目覚めて、4時台のラジオから流れてきたのは、「原爆被害認定訴訟」に関わる医師の話し。
戦後79年も経ち、自らも90歳という高齢で、今なおこの訴訟に全力で取り組んでいる。
79年前、第二次世界大戦後の東京裁判判事のラーダービノード・パール博士(インド)は、アメリカが犯した原爆投下という戦争犯罪について以下のように断罪している。
「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊と言うものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令、および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで充分である。」
田中正明氏『パール判事の日本無罪論』より
「一体あの場合、アメリカは原子爆弾を投下すべき何の理由があったであろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができていた。広島に原子爆弾が投下される二ヶ月前から、ソビエト通じて降伏の交渉を進める用意をしていたのである。当時日本は、連合国との戦いにおいて敗北したという事は明白にわかっていた。彼らはそのことを充分知っていたにもかかわらず、実に悲惨なる破壊力を持つところの原爆を、あえて投下したのである。しかもこれは一種の実験としてでである。
我々はそこに、いろいろな事情を汲み取ることができない。しかしながら、これを投下したところの国から、いまだかって真実味のある懺悔の言葉を聞いたことがない。これからの世界の平和を語る上において、そのような冷酷な態度が許されていいものだろうか。
この原爆投下について、これまでアメリカは色々と弁明しているが、その説明あるいは口実はどのようなものであったか。我々はこれを充分考えてみる必要がある。原爆を投下するという事は、男女の別なく戦闘員と非戦闘員の別なく、無差別に人を殺すということである。しかも、最も残虐なる形においての大量殺人である。瞬間的な殺人であるばかりでなく、放射能による後遺症は、徐々に人体を蝕み、戦争が終わってから後も、多数の市民が、次から次へと倒れ、あるいは、悪性な遺伝子に悩まされている。生きながら、地獄の苦痛にあえいでいる善良なる市民が、今日なお春にあふれているのである。
しかしながら、彼らの原爆投下の説明、あるいは口実は何であるか。『もしもこれを投下しなかったならば、幾千人かの白人の兵隊が犠牲にならなければならなかったろう・・・』。これがその説明である。我々はこの説明を聞いて、満足することができるであろうか。一体、幾千人の軍人の生命を救う代償として、罪のない老人や子供や婦人を、あるいは一般の平和的生活を営む市民を、幾万人十万人も殺して良いと言うのだろうか。その家や財産とともに、市街の全部を灰にしてもいいというのだろうか。このような空空らしい説明や口実がなされたということ、それ自体、この説明で満足する人々が、彼らの中に多数いることを証明するものである。こんな説明で満足しているような人々によって、人道主義だとか、平和だとかいうような言葉がもてあそばれていることを、我々は深く悲しむものである。我々はこうした手合いと、二度とふたたび人道や平和について語りたくはない」
「こんな説明で満足しているような人々によって、人道主義だとか、平和だとかいうような言葉がもてあそばれていることを、我々は深く悲しむものである。」
私たちはこのことを全力で語り継がなくてはならない。
終戦記念日が近づくと、各紙が第二次世界大戦の悲惨な歴史の証言を掲載する。
戦後79年ともなれば、歴史の証人が少なくなっていく中での特集は大変なことだろうと、記事を読みながら考える。
何十年経っても、否、何十年経ってしまったからこそ、絶対に忘れ去られてはいけない、語り継いでいかなくてはならないとの使命感を感じる。
それに比べて、我が国の総理大臣。
お盆中、終戦記念日の前日に自分の進退表明。
「誰かが出馬を表明してから自分が不出馬を決めたのではないということにしたかったのでしょう」と、ある有名な政治評論家が言っていた。
この期に及んで自分の体裁のことが一番頭にある、我が国の政治家。
岸田総理の記事の隣には、「戦禍の満州を逃げ惑った16歳の軍国少年」の記事。現在95歳で、引き上げ船が着いた港に立ち当時の記憶を語られていた。涙が出た。
この新聞の1面は、かつての軍国少年やその家族、たくさんの犠牲を払った国民にはどのように映ったか。