興味深い記事を見つけました。わかりやすくて、とても参考になります。
「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という趣旨で、「敬老の日」が9月15日に定められたのは1966年のことです。「敬老の日」が定められた背景には、戦後復興から東京オリンピックという一つの達成感を得て、改めてその苦労に報いたいという思いが社会全体にあったのではないか。
当時の高齢化率(全人口に占める65歳以上の高齢者の割合)は約6%でした。おおよそ17人に1人です。数少ない存在ですから、自然と、ありがたみや尊敬、「皆で大切にする」といった意識が生まれたのでしょう。地域コミュニティーが機能していたので、高齢者には年中行事や冠婚葬祭などがあるたびに、あるいは子育てや家事などに関して次世代に知恵や経験を授けるという役割もあり、頼りになる存在としても意識されていたはずです。
一方で、17人に1人という少なさですから、同世代の友人はなかなかできません。日常的に昔話に花を咲かせることができる友人、同じ趣味を楽しむ人、同じつらさや痛み、喪失感を共有できる仲間は、今の高齢者ほどには恵まれていなかったでしょう。3世代同居で家族が周りにいるとはいっても、どこか物静かで孤高な感じが漂う――。このような、尊敬すべき人たちが寂しそうに見えるという状況も、「敬老の日」の制定につながったのではないでしょうか。
ところが、現在の高齢化率は約29%になっており、おおよそ3人に1人ですから、全く珍しくはない存在となりました。
さらに、今の高齢者は体力があります。見た目も実に若々しくなっていますが、実際に歩行スピードや片足立ちなど、体力測定の数値を見ると、この20年くらいで10歳ほど若返っており、今の75歳は20年前の60代前半の人たちと同じくらいの体力があります。
また、65歳の人の平均余命(平均的にあと何年生きるか)は現在、男性が19.9年、女性が24.7年です。高齢者といっても“平均で”あと20年の長い人生があるわけで、老い先短い人たちとはいえません。3人に1人ですから、皆が現役世代に支えられる側となるのではなく、その元気さを生かして社会参加するように求められているのも大きな違いです。
このように見てくると、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という昔ながらの敬老の精神は、今の高齢者に対してしっくりくるものではありません。多年にわたり社会に尽くしてきたのはその通りだとしても、昔の高齢者よりはるかに体力があって、まだまだ社会参加が十分に可能な元気な人たちですから、“敬愛”といった引退した人をいたわるような言葉より、エールを送りたいような気分になります。
超高齢社会において、お年寄りを大切にするとはどういうことかという「敬老のパラダイム」を転換する必要があるでしょう。見違えるような体力の向上、社会参加や自立生活に対する意欲、健康に対する意識の高まりなどを見れば、超高齢社会にふさわしい「敬老の日」は、「高齢者それぞれの強みを一緒に見直し、それを発揮していただく機会を提供する日」なのではないかと筆者は考えます。
NPO法人・老いの工学研究所 理事長 川口雅裕
納得です。
最近始めた釣り。
この釣果に、このご馳走。
旭、最高!
3連休の予定を変更して、孫達がやってきた。
沖縄では台風が猛威をふるっているというのに、旭は風もなく蒸し暑い一日だった。
まだまだ旭の夏は終わらない。
みんなー、旭においでよー。こんなに楽しいよー。
ひっ迫(逼迫)と切迫の意味の違い。
逼迫と切迫の違いを分かりやすく言うと、逼迫というのは、惨事と呼べるほど状況が悪いことを意味していて、切迫というのは、状況が予断を許さないことを意味しているという違いです。二つには違いがありますが、どちらも「切羽詰まった」(読み方:せっぱつまった)ことです。
例文買取りセンター
もう「惨事と呼べるほど状況が悪い」のです。この絵の指が、(絵に描いた)餅にならないように、しっかりと「off」していることを、みんなで確認しましょう。
明日からの三連休、勢力の強い台風が日本列島に上陸、縦断するとニュースが言っています。
切迫した地球温暖化と逼迫した電力需給。予断を許しません。
決算委員にならないと、令和3年度の決算の審議ができません。
残念ながら傍聴するしかないのですが。
一回だけ限定で質疑が許可されました。