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活動報告一覧

「海業」に向けて
飯岡灯台展望館より漁港えお見下ろす
漁港より飯岡灯台と展望館
海匝漁業協同組合
向こうに、みなと公園が見える

昨日で、三日間の決算特別委員会が終了し、今日は建設経済常任委員会。

補正予算に「海業」の協議会設置のための費用が計上されたため、各委員が「海業」という新しい事業について集中質疑。

委員会後には、「海業」の舞台となる、飯岡灯台、飯岡漁港を視察。

※海業

海業とは、海や漁村の地域資源の価値や魅力を活用する事業123であり、水産、観光、飲食業などが含まれる43海業は、漁業者を中心とした地域の人々の生産からサービスにいたるまでの一連の経済活動であり、地域のにぎわいや所得と雇用を生み出すことが期待される23海業という言葉は、1980年代中頃に神奈川県三浦市市長によって創られた5

人間の都合

英紙ガーディアンは14日、アフリカ南部のジンバブエがゾウ200頭を殺処分すると報じた。干ばつによる食料難に対応するためで、肉は食料として利用する。個体数が増えすぎていることを理由の一つに挙げているという。

同紙によると、ジンバブエは大規模な干ばつのために非常事態を宣言。国民の42%が貧困状態に置かれ、今後600万人が食料支援を必要としている。

ジンバブエの環境相は11日、国内に「必要以上に多くのゾウがいる」と国会で説明。野生動物関連の局に対し、殺処分の手続きを始めるよう指示したことを明らかにした。

米政府系放送局のボイス・オブ・アメリカ(VOA)によると、環境相は殺処分したゾウについて「肉を乾燥させて梱包(こんぽう)し、たんぱく質を必要とする地域に届けられるようにする」と述べた。

ジンバブエ国内の自然保護区には受け入れ可能な数の4倍以上に当たる6万5千頭のゾウが暮らしている。

■ナミビアも干ばつでゾウなどの食肉利用を計画

米紙ニューヨーク・タイムズによると、アフリカ南部のナミビアも83頭のゾウを含む700頭以上の野生動物を殺処分して食肉にすることを計画している。過去100年で最悪の干ばつに伴う食料難に対処するためだという。

英紙ガーディアンによると、ナミビア政府は殺処分する83頭のゾウについて、国内に生息する推定約2万頭のごく一部であるとの見解を示している。

地の自然保護活動家は同紙に対し、「ゾウが継続的かつ幾何級数的に増加することを許せば、(ほかの)動植物の生息環境に壊滅的な影響を与える」と指摘。ゾウが増えすぎることがほかの生物種に悪影響を与えるとし、こう付け加えた。

「これらの種は、ヨーロッパ中心主義の現場を知らない自然保護活動家からはあまり重要視されていない。(しかし) それらの種もゾウと同じくらい重要なのです」(佐藤達弥)

中秋の名月

決算審査委員会が終わって帰路に就くころには、どっぷり日が暮れて、田んぼの道には満月が。

車のテレビニュースでは、中秋の名月の今夜は満月ではなくて、明日の十六夜が満月だと言っている。

明日の満月が観られるかどうか、どうも雲行きがあやしい。

明日は決算審査委員会の三日目。

あっという間

行きたいところがあるなら、すぐに行こう。

会いたい人がいるなら、すぐに会おう。

やりたいことがあるなら、すべてやろう。

徳川斉昭

寛政12年(1800)一万延元年(1860)。水戸藩第9代藩主。水戸藩第7代藩主治紀の三男として江戸藩邸に生まれる。兄が死去したのち、文政12年(1829)に藩主となる。藤田東湖や会沢正志斉らの改革派の支持を背景に強力に質素倹約・社寺改革・財政再建などの藩政改革を断行。しかし、藩内に改革派と門閥派の対立が表面化し、弘化元年(1844)幕命により藩主を辞任、謹慎を命じられる。その後、土民の雪免運動により謹慎を解かれる。

嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府の海防参与に就任。のちに日米修好通商条約調印を巡り、大老井伊直弼と対立し水戸に永久蟄居を命ぜられたまま没する。烈公。

水戸藩の第9代藩主を務めた徳川斉昭は、12年(1800)に生まれた。そのころから。日本の近くの海にはロシア・イギリスなどの外国船が接してきたり、多くの藩で財政がとても厳しい状況にあるなど、様々な問題が表れてきた。その中で斉昭は、水戸藩内はもちろん、日本中から注目される存在となっていく。

文政12年(1829)に藩主となった斉昭が直面した問題は天保の飢饉(1833~1836)。その時、斉昭は貯蔵しておいた穀物を有効に活用するなど様々な救済策を打ち出すとともに、自ら倹約<むだ使いしないこと>を率先して行った。藩主自ら飢饉の被害を少しでも少なくしようと努力する姿は、多くの人々の共感を呼び、水戸藩の飢饉対策は全国的にも知られるようになった。

「領民の生活をしっかりと見ておかなくては改革を進めていくことはできない。」斉昭は藩主であった14年間のうち、合計5年2か月も藩内に留まり、人々の生活を見てまわり、藩の政治に役立てた。江戸に住むことが多かった水戸藩主としては、たいへん診しいことだった。

斉昭は藩政改革の一環として、藩の学校を水戸城内の三の丸に建てた。その名を弘道館といい、今の総合大学のような施設で、藩士の子弟が文学・地理・数学・兵学などの学間や、剣術・槍術・水泳などの武芸を習得する場として開設され、多くの優秀な人材を世に送り出した。その構内には医学館も設け、医者の研修の場とした。

また、弘道館で学ぶ藩士の休息の場として借楽園が造られた。偕楽とは「民と偕に楽しむ<身分にとらわれず、一緒に楽しむ>」という意味で、藩士ばかりでなく、一般庶民も毎月の定られた日には入園を許された。また、藩内の各郡には郷校を作り、庶民のための教育にも力を注いだ。

海岸沿いの守りを固めておかないと、強い軍事力をもつ西洋の国々に攻められてしまうと考えた斉昭は、追鳥狩と呼んだ軍事訓練や、大砲の鋳造を行うために反射炉の建設にも取り組んた。嘉永6年(1853)のペリー来航後は幕府の海防参与という役職に就任し、日本が外国に攻められないようにするためにはどのようにすればよいか、いろいろと対策を考え幕府にその実行を迫った。

しかし斉昭は、彦根藩[滋賀県]の藩主で幕府の大老井伊直弼と対立することになる。直弼は、アメリカとの貿易を認める日米修好通商条約を早く結ぶべきという考えであり、将軍の跡継ぎを誰にするのか、についても斉昭とは異なる意見だった。

幕府の大老である直弼との対立の結果、斉昭は、水戸城内で謹慎<自由な外出を制限されてしまうこと>することを言い渡されてしまう。しかしその後も、斉昭の考えに共感する人々からは「日本を外国から守るためには斉昭の力が必要だ。」と、大いに期待されていた。

このように、斉昭は天保から幕末へと向かう内外ともにたいへん難しい時代に,強烈な個性をもって積極的に改革を推し進めた藩主だった。

水戸市教育委員会より
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