雁の群れV字の上に先導の一羽がありぬ焼かれつつ飛ぶ 堀隆博『遊離する地平へ』
雁が北から渡ってくる季節になった。彼らは編隊を組んで南に向かう。一糸乱れぬV字の形を保ちながら。
作者は、その群れを先導する一羽に思いを寄せる。風を切って先頭を飛ぶ彼の胸は、いま焼けるように熱いのかもしれない。彼は焼かれつつ飛んでいるのだ。
集団を率いる者はいつも孤独。先行者の苦悩に共感する中年男性の悲哀が滲む歌。(大辻隆弘)
日本農業新聞:おはよう名歌と名句 2024.11.22
共感するのは中年男性だけではない。渡り鳥の美しい編隊は神々しい。先頭を飛ぶ鳥は自分の熱い思いで飛んでいるのか。胸が熱くなる。
人も同じであってほしい。
「ひるおび」識者 国民民主の103万の壁財源を全否定「すでに使途がある」使い残し予算も「余ってるということではない」
デイリースポーツ によるストーリー
TBS「ひるおび」では21日、国民民主党が103万円の壁の引き上げに必要な7兆円の財源について特集。識者が疑問を投げかけた。
代表の玉木雄一郎氏は、自身のYouTubeで、「2022年で税収の上ぶれが5・9兆、予算の使い残しが11・3兆、外為特会の剰余金が3・5兆あった」と説明。「財源ないと言う前に、その予算、必要なんですか。常に過剰に7兆だ10兆だ11兆だって余分にのっけてませんか?精度を高く分析すれば、7兆円程度の減収には対応できる」と語っている。
しかし、番組に出演した第一生命経済研究所首席エコノミストの熊野英生氏は「予算の使い残しというが、主な財源は国債。使わなかった分は国債を発行せずに済んでいるだけ、お金が余っているということではない」と説明した。
さらに2022年に岸田首相の防衛費の総額を43兆円とすることに決めたが、財源を剰余金などで調達するとしており「玉木さんの言う財源はすでに使う当てがあるんですね」とコメント。
「トランプ氏の帰り咲による国際情勢の変化や日銀の利上げの影響など、税収が続くかは疑問」とも語り、恒久的な減税策には否定だった。
明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) の意見
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍におけるフィリピン戦線での特攻と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第2シリーズ第6回)
前回記事:<じつは「戦果」が目的ではなかった…「特攻」を強行した大西瀧治郎中将の意外な「真意」>
突然の特攻命令
昭和19年10月末、福留繁中将の特攻志願の呼びかけに対して、周囲につられてつい一歩を踏み出してしまった第二二一海軍航空隊の小貫貞雄飛長に、特攻部隊である第二〇一海軍航空隊への転勤が命ぜられたのは、同年12月15日のことである。福留中将の特攻隊員への訓示© 現代ビジネス
「そのとき、私はクラークのアンへレス北飛行場にいました。夜10時頃、搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇林(はやし)飛長の2人に転勤が言い渡されました。それで、深夜のマニラ街道を、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラカットの二〇一空本部へ連れていかれました。
二〇一空では、中島正飛行長が、よく来てくれたと迎えてくれ、従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。
そして、それを食べ終わるか食べ終わらないかのときに、飛行長から、『明朝黎明発進』を告げられたんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。二〇一空飛行長・中島正中佐。特攻を積極的に推進し、搭乗員たちから蛇蝎のように嫌われていた© 現代ビジネス
で、遺書を書いて用意せよと言われるんですが、まだ18歳の子供ですからね、いきなり遺書を書けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこないし、実感が湧かない。
山脇と2人で、『俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな』・・・・・・などといろいろ話をしながら、少しうとうととしたらもう朝でした」
18歳で書いた遺書
割り切れない思いを胸に、小貫は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、小貫の遺書は、
〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は男子の本懐一機一艦/親に先立つ不孝お許しください/天皇陛下万歳〉
と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。福留中将の特攻志願の呼びかけに、つい一歩前に出てしまい特攻隊員となった小貫貞雄飛行兵長© 現代ビジネス
「天皇陛下万歳っていうのは、まあ決まり言葉ですね。ちょこちょこっと書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく格好がつく。虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いてという言葉そのままです。空戦でも死ぬかもしれないが、それは自分が生きて相手を倒すことが目的ですから、特攻で死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。自分の腹のなかを整理するのが大変でした」
と小貫(戦後、杉田と改姓)は私に語っている。
無言で出撃した同級生の最期
12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の編成表(第十一金剛隊)を見ると、山脇の名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、小貫の名前はそこにはなかった。
「一瞬、選に漏れた無念と、今日は生き延びたという本能の喜びが交錯しましたが、第二小隊に名前があった山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを届けてくれと遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音のなか、『おい、なにか言っておくことないか』と声をかけたんですが、彼は黙って首を振るばかりでした」特攻隊員が飛行機に向かう© 現代ビジネス
山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、戦死した。
山脇の自爆の状況を、荒井敏雄上飛曹が確認している。荒井が私に語ったところによると、山脇は離陸後、風防のなかでずっと顔をくしゃくしゃにして泣いるのが見えて、かわいそうでならなかったという。しかも、敵船団を発見し、山脇機は敵巡洋艦後部に突入、命中するのが見えたが、爆弾が不発に終わったらしく、敵艦からは煙ひとつ立ち上らなかった。山脇は出撃後、爆弾の信管の発火装置の留め金をはずし忘れたものと思われた。特攻機の直掩をつとめた荒井敏雄上飛曹。その後も直掩、爆装に特攻出撃を重ねて生還する© 現代ビジネス
「副官、散歩に行こう」大西中将の覚悟
昭和19年、暮れも押しせまると、いよいよルソン島の陸上戦が近いことが予想され、大西瀧治郎中将は、報道班員たちを内地に帰すことを考えた。大西は、南西方面艦隊附から第一航空艦隊附になっていた毎日新聞の新名丈夫記者を呼び、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じて、「第一航空艦隊から出張」という名目で内地に帰らせた。昭和19年11月25日、特攻機が米空母「エセックス」に突入した瞬間© 現代ビジネス米空母エセックスに突入した特攻機は大爆発を起こした© 現代ビジネス
いまや東條内閣は退陣し、小磯内閣に代わっていたが、かつて、「竹槍事件」(「東条英機」が激怒した…「竹槍では戦えぬ」と「大本営発表」に疑問を呈した「毎日新聞の記者」に「届いたモノ」)で東條英機の怒りを買い、陸軍に懲罰召集された新名をそのまま帰すと、ふたたび召集される恐れがある。「出張」という名目にしたのはそのためだった。新名が道中、不自由することのないよう、大西は「通過各部隊副長」宛てに、「道中御便宜取計相成度」との添え書きを持たせた。
大西中将が、陸上戦に備えて陣地構築の下見に出かけるようになったのは、その頃のことである。ある日、夕方になって大西が門司親徳主計大尉に、「副官、散歩に行こう」と言い出した。この日は、バンバン川に面する小高い丘からクラーク平原を望んだだけで、1時間半ほどの散歩だったが、次の日も、大西は午後3時頃、「散歩に行こう」と、門司を連れ出した。2人とも、軍刀も拳銃も持たない丸腰のままである。この日は、司令部の丘の南から、バンバンの集落に寄ったほうの道を西に向かった。
「長官はゆっくりした足どりで、飛行靴を一歩一歩踏みしめて歩いた。少し痩せて、心労が背中からにじみ出ているかのようでした」と、門司は回想する。1時間ほど歩いたところで、大西は、「ここを登ってみよう」と、少しきつい丘の斜面を登り始めた。尾根についてみると、バンバンの町が左手に、うねったバンバン川の向こうには、マバラカット東、西の飛行場、舗装されたクラーク中の滑走路が見わたせた。目を右に転じれば、重なり合った低い山が続いていて、その奥は深い谷のように落ち込み、さらに向こうのピナツボ山(標高1745メートル)につながっている。
大西は、黙ってこの風景を眺めていた。
門司は、大西が山ごもりの陣地構築を考えていることに気づいた。指揮下にある航空部隊には1万人を超える将兵がいるが、陸上戦闘に必要な兵器を持っていない。いよいよ航空兵力が尽きたら、大西は、この山岳地帯で、持久戦、ゲリラ戦を考えているのに相違なかった。
大西は山のほうを眺めながらしばらく歩き回っていたが、ふと門司を振り返ると、「副官は剣道何段だ」と言った。「三級です」門司が答えると、大西は、「三級は心細いな」ニヤリと笑った。門司は、大西の言わんとすることをすぐに察した。この山のなかで、長官を介錯することがほんとうに起こるのだろうか。門司は胸を締めつけられるような思いがしたが、それが過ぎると、なにかありそうにないことのようにも思えた。第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将(右)と副官・門司親徳主計大尉© 現代ビジネス
登ってきた尾根の反対側は、短い草が生え揃った、芝生のような斜面であった。下のほうは潅木が生えているが、ここを通ればバンバンの集落への近道のようだった。「こっちから行けるかな」「行けるかどうか、見てきます」門司は、草の斜面を駆け下りた。潅木の先は2メートルほどの崖になっているが、下りられないことはない。「大丈夫です!」
下から門司が大声で言った。大西は、斜面を少し下りかけると、急に草の上に横になって、その斜面をまるで子供が遊ぶように、ゴロゴロと転がって下りてきた。思いがけない長官の行動に、門司は驚いた。
大西は、門司の傍らまで転がってきて止まると、草の上にゆっくりと胡坐をかき、少しあみだになった帽子のまま、ニヤニヤとなんともいえない顔で門司を見上げた。門司は、人懐っこい気分になり、大西に手を差し伸べた。門司の手につかまって、大西は、どっこいしょと立ち上がった。大西の軍服についた草を払いながら、門司は、「長官の首は、骨が太くて切りにくそうです」と言った。大西は、「そうか、骨が太いか」と言いって、それ以上、なにも言わなかった。
門司を伴にしての散歩はこの2回だけだったが、大西はその後も、小田原俊彦参謀長や二十六航戦の吉岡忠一参謀、二航艦の宮本実夫参謀などを連れて、本格的な複郭陣地の検討に入った。
「飛行長、クルクルパーになっちゃった」
昭和20年の正月が明けた。元旦早々、クラークは米軍の大型爆撃機B-24の編隊による絨毯爆撃を受けた。マバラカット西飛行場の、バンバン川に面した崖が爆弾でくずれ、崖につくられた防空壕にいた大勢の整備員と、数名の搭乗員が生き埋めになった。
1月4日から5日にかけて、空母をふくむ艦隊に護衛された敵の大輸送船団が、ルソン島の西側を北上しているのが索敵機により確認された。敵はマニラ湾外を北上し、かつて日本軍がそうしたように、リンガエン湾から上陸してくるものと予測された。
敵がリンガエン湾に向かうことがいよいよ確実になった1月5日から6日にかけて、海軍航空部隊はこの敵船団に向け、総力を挙げて体当り攻撃をかけた。昭和20年1月4日、リンガエン湾で特攻機の突入を受け爆煙を上げる米護衛空母「オマニー・ベイ」。同艦の戦死、行方不明者93名、負傷者65名に達し、艦は曳航不能と判断され、米駆逐艦の魚雷で処分された© 現代ビジネス
1月5日、元山空から増派された金谷真一大尉を指揮官とする第十八金剛隊16機(別に直掩機4機)は、マバラカットを発進、ルバング島西方の輸送船団に体当たりし、小型輸送船3隻撃沈、1隻撃破の戦果を報じた。また同じ日、七六三空の彗星で編成された旭日隊6機(別に戦果確認機1機)もマバラカットを飛び立ち、大型輸送船1隻轟沈、1機は敵空母に命中、と報告している。この日は別に、陸軍特攻隊も出撃していて、米側記録によると、1月5日の損害は豪重巡「オーストラリア」、米護衛駆逐艦「スタフォード」が大破したほか、護衛空母2隻、重巡1隻、水上機母艦1隻、駆逐艦2隻、歩兵揚陸艇1隻、曳船1隻がいずれも損傷を受けたとある。昭和20年1月5日、被弾の衝撃で片脚が飛び出しながらも米護衛空母「ナトマ・ベイ」に突入しようとする特攻機〈1〉© 現代ビジネス昭和20年1月5日、被弾の衝撃で片脚が飛び出しながらも米護衛空母「ナトマ・ベイ」に突入しようとする特攻機〈2〉。同機は命中せず、艦尾左舷の海面に激突、爆発した© 現代ビジネス
1月6日、敵の先遣隊がリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始すると、それを迎え撃つため、第十九金剛隊15機(直掩機2機)、第二十金剛隊5機(戦果確認機1機)がマバラカットから、第二十一金剛隊8機(直掩機8機)がエチアゲから、第二十二金剛隊五機がアンへレスから、第二十三金剛隊9機(直掩・誘導機7機)がニコルス基地から、旭日隊の彗星2機がソビとマバラカットから、夜間には八幡隊の天山8機がクラークから、それぞれ体当たり攻撃に発進した。陸軍の特攻隊の戦果もあわせて、この日の米軍の被害は、掃海駆逐艦「ロング」沈没、戦艦「ニュー・メキシコ」「カリフォルニア」ほか重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻がいずれも大破、駆逐艦4隻、高速輸送船1隻、掃海駆逐艦1隻がいずれも損傷、というものであった。
マバラカット基地からの特攻出撃はこれが最後になるが、この日の朝、二〇一空飛行長・中島正中佐は、指揮所前に全搭乗員を集合させ、
「天皇陛下は、海軍大臣より敷島隊成功の報告をお聞き召されて、『かくまでやらねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかし、よくやった』と仰せられた。よくやったとは仰せられたが、特攻を止めろとは仰せられなかった。陛下の大御心を安んじ奉ることができないのだから、飛行機のある限り最後の一機まで特攻は続けなければならぬ。飛行機がなくなったら、最後の一兵まで斬って斬って斬りまくるのだ!」
と顔面を蒼白にひきつらせ、軍刀を振り回して訓示した。それはもはや、「訓示」というより「絶叫」といったほうがふさわしかった。
角田和男少尉は、この中島の様子を見て、「ついに飛行長、おかしくなってしまったか」と暗然とした気分になった。角田和男少尉(左)と秋月清上飛曹© 現代ビジネス
解散が令せられ、搭乗員が三々五々、それぞれの居場所へと散っていくとき、角田の傍にいた秋月清上飛曹が、右手の人差指を頭の上で回しながら、
「飛行長、クルクルパーになっちゃった」
と、大きな口を開け、あっけらかんとした調子で言った。その秋月の瞳にも、すでに尋常ではない光が宿っている。直掩に爆装に、幾度も特攻出撃を繰り返し生還した秋月は、そのトラウマからか心を病み、戦後は長く精神病院で過ごすことになる。
爆撃に成功して生還した後藤は上官から4時間の叱責…
司令の玉井浅一中佐は、かつては情の厚い、部下思いの指揮官として知られていたが、特攻出撃を積極的に推進する立場になってからは、敵を発見できずに引き返してきた特攻隊員を罵倒し責め立てるなど、精神の平衡を欠いてきているのが傍目にもわかる。昭和19年11月1日より二〇一空司令となった玉井浅一中佐© 現代ビジネス
ラバウルの二〇四空副長やマリアナの二六三空司令を務めていた頃以来の、馴染みの深い子飼いの部下は、たとえ志願してきても特攻に出そうとしない。
「特攻隊の編成を発表するとき、整列した搭乗員のなかで思わず目を伏せたようなのが名前を呼ばれ、傲然と玉井の目を睨み返しているような搭乗員は選ばれない」
と、角田少尉が回想するように、玉井の人選は、搭乗員から見ると人が悪いところがあった。増槽(落下式燃料タンク)を装備し、出撃する特攻直掩機© 現代ビジネス
この日の昼過ぎ、第十九金剛隊の爆装機のうち、後藤喜一上飛曹機が爆弾を投下し、体当りせずに還ってきた。爆弾は敵輸送船に命中したという。だが後藤が指揮所に報告にくるや否や、玉井と中島から激しい怒声がとんだ。
「特攻に出た者が、なんで爆弾を落としたか!」
というのである。後藤は、作戦室を兼ねた防空壕に連れ込まれ、2人から4時間にわたって叱責され続けた。そして夕方、エチアゲから出撃しマバラカットに着陸してきた第二十一金剛隊の零戦に乗って、こんどは第二十金剛隊の一員としてふたたび出撃することを命ぜられ、そのまま還ってこなかった。爆弾を投下し生還したことで玉井司令、中島飛行長から詰問された後藤喜一上飛曹© 現代ビジネス
後藤上飛曹は、マーシャル、硫黄島の激戦を戦い抜いた歴戦の搭乗員で、いつもニコニコと笑顔を絶やさない少年だったが、防空壕から引きずり出されたときは、別人のようにやつれ果てた姿だったという。
マバラカットでもマニラでも、すでに食糧は不足している。この頃になると食事は、朝、昼、晩ともにサツマイモだけ、直径60ミリほどのものなら1本、30ミリほどのものなら2本が支給されるに過ぎない。これから特攻に出撃する搭乗員にのみ、大きいサツマイモ2本と塩湯が供された。
1月7日には、第二十八金剛隊8機(直掩機8機)、第二十九金剛隊3機(直掩機3機)がルソン島中北部のエチアゲ基地から発進、1月9日、ニコルス基地から第二十四金剛隊7機(直掩機5機)、ルソン島北東部のツゲガラオ基地から第二十五金剛隊4機(直掩機4機)、第二十六金剛隊2機(直掩機3機、ただし2機は未帰還)が発進し、これを最後にフィリピンにおける組織的な特攻隊の出撃は終わりを告げた。
特攻隊が壮絶な戦いを繰り広げている間にも、地上員の山ごもりの準備は着々と進められていた。陸軍部隊との協議の結果、海軍はピナツボ山麓の「十一戦区」から「十七戦区」まで7つの地域に複郭陣地を構築することが定められ、それぞれに配置される部隊が決められた。
航空隊や対空砲台、設営隊、フィリピン近海で撃沈された艦艇の乗組員などが全て陸戦隊となってこのなかに組み入れられ、糧食や弾薬を山中に運ぶ作業は夜を徹して行なわれた。
大西中将のトランク2個や、門司副官の荷物なども、最小限の身の回りの品を残して、隊員たちの手で全て山中に運び込まれた。
角田和男少尉や小貫貞雄飛長など、特攻隊の搭乗員も例外ではない。陸上戦闘の経験のない搭乗員たちは、手榴弾の投擲訓練をふくめ、山にこもる準備を始めた。小貫飛長は語る。
「飛行服を脱ぎ、草色の第三種軍装に編上靴、ゲートル、拳銃2丁、戦死者の遺品から頂戴した日本刀を腰に差した、なんともお粗末な陸戦姿でした。陸上戦闘の怖さを知らないわれわれは、仲間と刀を振り回し、『俺は宮本武蔵だ』などと、田舎芝居の役者気取りでした。私は飛行兵長でしたが、よその部隊の兵隊になめられないようにと、二階級上、下士官の一等飛行兵曹の階級章をつけていても、誰にも文句を言われませんでした」
――もはや軍紀も緩み切っていたのだ。(続く)2000年4月、二〇一空戦友会が靖国神社に奉納した桜の木の下で。左から元一航艦副官・門司親徳、元特攻隊員・鈴村善一夫妻、角田和男、杉田(小貫)貞雄© 現代ビジネス
玉木雄一郎氏の不倫報道について、作家・北原みのりさんの連載から抜粋。
「玉木さんは描いていたであろう未来を一瞬にして失ったが、職を失ったわけではない。でももし玉木さんが女性だったらきっと、国会議員でいることは難しかっただろう。不倫した女は、職も未来も名誉も尊厳も一気に奪われる。不倫が暴露されたとき、女性にだけ特に厳しい報道や処罰はいつものことだが、つくづく理不尽である。」
この件は、女性として、否、人として全くの同感である。こんなことが許されていいはずがない。「男女共同参画」を唱えはじめてからいったい何年、いや何十年経つのか。立法府がこれだもの、餅はいつまでたっても絵に描いたままで、食べられやしない。
国民民主党代表の玉木雄一郎さんの不倫話で、何時間も友だちと話し込んでしまう。
申し訳ないが今は、性欲に負けた男……と、そんな言葉しか思いうかばず、しかしいったい、人生をかけるべき大切な時にでも、そんなことをしてしまうのが人間というものなのか……と、同情のような、憐憫のような、軽蔑のような、しかしこれ以上の物語はなかなか見られないぞという野次馬根性のような、様々な感情で心が乱れている。
今回、観光大使の仕事をしていた相手の女性は、すぐさま解任を含めて検討中と報じられた。気の毒。
玉木さんは描いていたであろう未来を一瞬にして失ったが、職を失ったわけではない。でももし玉木さんが女性だったらきっと、国会議員でいることは難しかっただろう。不倫した女は、職も未来も名誉も尊厳も一気に奪われる。不倫が暴露されたとき、女性にだけ特に厳しい報道や処罰はいつものことだが、つくづく理不尽である。
政治家の不倫問題。
私の世代だと、一番先に思い出すのは、1989年の宇野宗佑総理かもしれない。
宇野さんは当時、棚ぼた的な人事でいきなり総理大臣になったのだが、就任3日後に発売された週刊誌で宇野さんの愛人だったという女性が、宇野さんとの過去の関係を暴露したのだ。それが原因で、その年の参議院選挙で自民党が大敗し、宇野さんは退陣した。
私は当時大学生だったが、宇野さんを見ると気持ち悪くてしかたなくなったのを覚えている。今よりも恐らく男性の不倫には寛容な時代だったかもしれないが、それでも相手の女性側が告発するくらいに「宇野さんは酷い男だった」というメッセージも、宇野さんのイメージを最悪にした。告発当時、宇野さんは66歳、相手の女性は40歳だった。
今回の玉木さんの件と比べると、なんだか隔世の感がある。
今回の玉木さんは、「恋愛しているウキウキ感」が前面に出ていた。39歳の女性はまるでティーンのような格好でデートをしていた。そこには政治家としての重みも危機感もなく、フツーのサラリーマンのフツーの浮気な感じも含めていろいろと、考えさせられる。
政治家という職業に就く人たちも、平成・令和の過程で大きく様変わりした。そして私たちも、政治家の倫理観のなさというものにどこか諦めのように慣れきってしまっている。
きっとこの玉木さんの件も、きっと来年の今頃には風化して、誰も覚えていないような話になってしまっているのかもしれないくらいに。それにしても……玉木さん、ほんとに、なぜ!?
作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」より
教科書に載っていたのをきっかけに、18日に亡くなった谷川俊太郎の詩を少し読んだ記憶が蘇る。
しかし、今の今まで「鉄腕アトム」の主題歌執筆は知らなかった。
以下、谷川俊太郎執筆になった経緯。宇宙的な偶然に鳥肌がたった。
手塚治虫:
「昨夜のパーティーで、宇宙とひとり向き合う少年の心を、みずみずしく表現した『二〇億光年の孤独』という詩集と、詩語がとても新鮮な『六十二のソネット』を出している谷川俊太郎さんという方にお会いしたのです。さっそくお話して、主題歌の作詞を依頼しました。電話がありますから、よろしくお願いします」
谷川俊太郎:
『鉄腕アトム』~日本で最初のアニメソングを詩人の谷川俊太郎が手がけることになった理由
私の作詩した歌の中で、こんなに愛された歌は他にありません。
〈略〉
実を言うと、「ラララ」は窮余の一策でした。ところがカラオケなどで皆が歌うと、思いがけずそのラララが生きるのです。歌は言葉の意味だけではないと学んだことも、アトムの歌からです。
2019.11.16 佐藤 剛
「こころやさし ラララ 科学の子」
手塚治虫作品は、遥か未来を予見したものが多い。
今日の新聞の1面には、AIによる偽動画や偽情報が欧州のウクライナ支援を止めさせるために流されている、とあった。
AIも科学の子だろうに、「こころやさし」く人類の平和のためだけに貢献してくれるものにはなれないのだろうか。
地球上の科学者の良心に、「鉄腕アトム」の主題歌をかみしめてもらいたい。
谷川俊太郎
1931年、哲学者・谷川徹三の一人息子として生まれた。東京都立豊多摩高在学中に書きためた詩のノートを父親が三好達治に見せたのがきっかけで、20歳の時、「二十億光年の孤独」を出版した。大岡信、茨木のり子らと詩誌「 櫂(かい) 」に参加。「六十二のソネット」「愛について」など次々と詩集を発表した。
アニメ「鉄腕アトム」の主題歌をはじめ、ラジオドラマのシナリオや戯曲も執筆。英国の伝承童謡の訳詩集「マザー・グースのうた」(日本翻訳文化賞)や、「ことばあそびうた」「わらべうた」など、ひらがなを使った子供向けの詩も多く手がけた。
また、犬のスヌーピーが登場する米国の人気漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳を続け、「朝のリレー」が国語教科書やテレビCMに採用されるなど、幅広い活動で知られた。
読売新聞