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活動報告

「不可能こそが我が使命だと信じて」:濤川惣助
明治26 (1893)年のアメリカ・シカゴ万博に出品した 「七宝富嶽図額」は、 七宝の絵画的表現を究めたものとして大きな反響を呼んだと伝えられています。(現在重要文化財に指定されています)

皇居三の丸尚蔵館の展示を観に行った方の話しを聞きました。濤川惣助の作品は七宝焼なのに水墨画にしか見えなかったと、感激冷めやらず。

私も行って観たかったなぁ。

あとで濤川惣助の作品を紹介した動画もみせてもらって、あらためて旭の偉大な先人に思いを寄せたのでした。

濤川惣助は1847年(弘化4年)に下総国鶴巻村[2](現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれた。その後に陶磁器等を扱う貿易商となったが、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会を観覧して七宝の魅力に目覚め、直ぐに七宝家の道に転進した[3]。同年中に塚本貝助ら尾張七宝の職人達を擁する東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収し、2年後の1879年(明治12年)には革新的な技法となる無線七宝を発明した。

Wikipedia

明治42(1909)年に東宮御所として建設された 「赤坂離宮」 (現在の迎賓館)の【花鳥の間】に鳥と花を主題とした画家、渡辺省亭原画による楕円形の七宝額絵30点と大型の額絵2点(合計32点)を制作しました。