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活動報告

「人を信じなさい。そして、その100倍も自分自身を信じなさい」手塚治虫
『手塚治虫忌』
今日、2月9日は、漫画の神様と呼ばれた「手塚治虫」の命日です。60年の生涯に、およそ15万枚の漫画と60本のアニメを描いた天才は、1988年(昭和63年)の3月に、胃の手術を受けます。胃潰瘍と告げられていましたが、実は、がんでした。手術後に一度、退院はするものの、同じ年の11月にふたたび入院。病床にありながら仕事を続けますが、翌年の1月15日に病状が悪化。意識を取り戻すたびに、言い続けたのは、こんな言葉でした。
「えんぴつをくれ・・・」
そしてついに、1989年2月9日、帰らぬ人となりました。今日は、その命日にちなんで「手塚治虫」が「漫画の神様」と呼ばれるわけを、たどってまいりましょう。

手塚治虫は、1928年(昭和3年)の11月3日、
大阪府豊中市に生まれます。3人兄妹の長男。
父親の粲(ゆたか)は、住友金属に務める会社員で、カメラが趣味。母親の文子(ふみこ)は陸軍中将の家に育ち、ピアノが上手な才媛でした。おじいさんは裁判官で、孫の治虫によく言い聞かせていました。
「人間はな、みんな自由で平等でなくてはいけないんだよ」
治虫少年は、とにかく物語を作るのが得意で、作文はいつも大作。「東京まで旅行したこと」という題で、大阪から東京までの一駅ごとにすべての物語を書き上げて、先生を驚かせたこともあります。作文以上にうまかったのが漫画です。しかし、体が小さく体育は苦手。いじめっ子たちの標的にされていた治虫少年に、母親は聞きました。
「今日は、何回泣かされたの?」「7回」
答える息子の頭を撫でながら、母は、いつも言いました。「がまんするのよ、許してあげなさいね」

1941年(昭和16年)、治虫少年が大阪府立北野中学に進んだとき、太平洋戦争が始まりました。漫画本が消え、絵を描くことが「遊びだ」と叱られるようなこの時代を、治虫少年は憎みました。大阪大学付属医学専門部に入学した年に終戦。
「大阪の町に灯りが点いている。戦争が終わったんだ。
 ボクは生き残れたんだ。漫画家になれるかも知れない」
医学生・手塚治虫は子供向け毎日新聞連載の「マァチャンの日記帳」という作品で、デビューしてしまいます。
その後、「新宝島」「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」などの新作を発表。人物の顔や一場面を大きく描く「クローズアップ」一つの動作をこまかく分けて描く「コマ割り」といった新しい手法で手塚人気は一気に高まっていきます。当然、医学の勉強はお留守です。東京へ出て本格的な漫画の勉強をという誘いを受けたとき、その迷いを吹っ切ってくれたのは、お母さんの言葉でした。
「医者でも漫画家でも、あなたの好きな道を行きなさい」
こうして東京へ出て最初に発表したのが「ジャングル大帝」でした。そしてあの「鉄腕アトム」の誕生を迎えます。
①どんな計算でも1秒でできる ② 目がサーチライトになる
③話せる言葉は60ヶ国語 ④力は10万馬力 ⑤聴力は1000倍 ⑥ ジェット噴射で飛べる ⑦ 相手がいい人か悪い人か、すぐ分かる。アトムは子どもたちの夢そのものでした。
その一方で、医師の国家試験に合格し、医学博士の学位まで取ってしまうのですから、手塚治虫は並みの天才ではありません。

1963年(昭和38年)元旦、アトムは日本初の長編アニメになって、お茶の間に飛んできます。最高視聴率は何と、40・7%!ディズニーの「バンビ」を、映画館に通って80回も観たという手塚ににとって、それは一つの夢の開花だったことでしょう。後にスタッフが五百人近くにふくれ上がり、アニメのプロダクションは倒産。けれども、手塚治虫の筆は衰えず「ブッダ」「ブラックジャック」「三つ目が通る」などの名作を、次々に生み出しました。ガリガリ、シャーッと、紙の上を踊るように動くペンの音とともに、手塚治虫は、こんな言葉を残しています。
「人を信じなさい。そして、その100倍も自分自身を信じなさい」
ニッポン放送